1975年生まれ。18歳で銀座のママになるべく銀座で働きはじめる。
多くの一流のビジネスマンを接客する中で、一般常識とマナー、気配りの大切さを学び、26歳で銀座のクラブオーナーとなる。
海外講演をはじめとし、国内では企業の経営者や就職活動中の学生に対する講演、女子力アップセミナーまで男女問わず幅広い世代へ向けたセミナー講師を務める。
同時にホスピタリティをテーマにサービス業界、飲食業界、金融業界などへの研修、コンサルティングも行っている。
30代で「世界に通用する女子力を総合的に学びたい!」と考え、グレース・ケリーも花嫁修業の一環として通ったというフィニッシングスクール「ジョン・ロバート・パワーズスクール」に入校。
スクールの最終講義の一環として、IMTA(インターナショナ・モデリング・アンド・タレント・アソシエーション)という年に2回ニューヨークとロサンゼルスで行われる海外オーディションに参加。モデル部門でメイク分野で3位、ウォーキング分野で入賞。

※IMTAは、87年にスタート、ジェシカ・ホワイト/ケイト・モス/イライジャ・ウッド/ケイティー・ホームズなどを輩出している世界最大級の海外オーディション。

著書
「知性と気配りを身につける銀座の教え」
「いつ、誰が相手でも必ず盛り上がる銀座の雑談手帳」
「銀座に集う一流の午後6時からの成功仕事術」
「また会いたいと思われる人になる 大人の教科書」
(クロスメディア・パブリッシング)

1975年

本籍はジブリ映画「もののけ姫」のモデルにもなった世界最古の自然が残る鹿児島県の屋久島。
なのですが、残念ながら一度も住んだことはありません。

生まれた時は母が地元に帰省していたので鳥取県の米子市で生まれました。
夜泣きが激しかったらしく産後の母を気遣い、祖母代わりの母の叔母が私を抱いて夜な夜な近所を徘徊。

弟、妹が生まれる

父の実家の家業の着物屋を手伝い忙しい両親。
かまってもらえない苛立ちから、母が趣味のお琴を弾いている時に弦をハサミで切ってまで振り向かせようとする(笑)

「音が出なくなって顔を上げてみたら
 ハサミ持って笑って立っていてビックリしたわぁ」by 母談

幼い時から主張が激しかったようです(笑)

幼稚園時代

6歳まで大阪の高槻市で過ごす。

母方の祖父と出掛けた際リュックを背負っていたんですが、重いとか肩が痛いとか言っても持ってもらえないことに腹を立てていたらしく、電車の扉が開いた瞬間にリュックを投げ捨て電車を飛び降り走り去る。

「足は速いし人の間は上手にすり抜けていくし
 なかなか追いつけなくて大変だったんだぞぉ」by 祖父談

どんどん自己主張が激しくなっていくようです(笑)

小学生時代

小学校1年生の時に父の仕事の関係で東京へ。

同級生の母親が夜の世界で働いていて、彼女に憧れて夜の世界を目指す。

学校の高学年の時に担任の先生の秘書係に任命される。
クラスのぶりっ子第2位に選ばれる。

普通ならイジメられる要素がいっぱいですが私の気が強過ぎて誰も手出しできず。

家が自営業で幼いころから大人に囲まれていたのと親が共働きで家事一切を手伝っていたこともあり同年代の子たちが子供に見える。

議長団の議長を務めるも子供のやり取りに嫌気がさし会議の途中で退室し帰宅。

どんどん生意気に育っていきます(笑)

中学生時代

中1の時、すでに高1になっていた同じ中学だった先輩が「生意気だと噂なのはお前か」とよく会いに来る。

そんな中、尊敬できる人にしか敬語は使わないと豪語。
学校の先生を含め周りに尊敬できる大人がいなくて大人になりたくないと思う日々を過ごす。

唯一好きだったのは保健の先生。

生意気で反抗的な性格だったが、共働きの母を手伝うため中学時代まで学校が終わると夕食の支度や掃除洗濯などの家事一切をする。

高校入学

入学式の日にぶつかってきたのに立ち去ろうとするオバサンに腹を立て説教。
そのオバサンがなんと私のクラスの担任で入学後毎日のように呼び出される。

無欠席で早退もしたことがなくクラスで一番早く登校していたのに入学式の事件の嫌がらせと髪が茶色いというだけで毎日休み時間の度に呼び出されうんざりして不登校に。

人を見た目で判断する大人にガッカリし益々反抗的になる。

このころ新宿のDISCOにハマる。グリースやGBラビット

高校中退

学校から学校を辞めてくれと言われ、教育者からの言葉にひどく傷つく。

周りの人からは辞めたら後悔するからやめるなと言われたが、「この人たちから学ぶことは何もない。」と思い、「自分が後悔するような生き方はしない。」そう決めて高1の3月に中退。

銀座1軒目 18歳

10歳の頃から夢だった銀座のママになるべく18歳の誕生日に夜の銀座の世界へ…。

求人誌で見つけた銀座の高級クラブで面接を受け採用される。
入店初日、ロッカールームで一歳上のホステスさんにわざとぶつかられ逆に噛みつく。

「この子使えないからいらない。席から外して」と客席で売上のお姉さんに言われ悔しい思いをする。

夜の世界の右も左もわからない状態の中、ベテランの銀座のお姉様たちに囲まれ、お客様と上手にお話しできない上に、気もきかないし服装などの身嗜みも銀座に相応しくなく、一週間でお店をクビになる。

その時は理由を教えてもらうことなくクビになりショックを受け、自分にはこの仕事は向いていないのではないかと悩むも夢をあきらめず働かせてもらえるお店を探すことにする。

1軒目で面接してくれた男性スタッフに「小さなお店の方が向くのでは?」とお店を紹介され面接に行く。

銀座2軒目 18歳~20歳

はじめて同伴に誘ってくれたお客様に「彼氏がいるのでいけません」と断り笑われる。
このお店で水商売のことだけでなく人との繋がりの大切さを学ぶ。

酔って営業中にお店の中で寝たり、空気を読まず自分が歌いたい流行りの歌を歌ったりするも、とても良いお店で雇われママとその旦那様に娘のように可愛がられる。

そのうちお客様に合わせて自分が歌う歌を選ぶようになり春日八郎さんの「お富さん」や「加藤隼戦闘隊」などの軍歌も歌えるようになる。

2年間お世話になるがお店側のあれやこれやで色々あり辞めることに。
辞める際は一カ月以上前には言うのが暗黙のルールなので、その旨伝え承諾を得るが、それから嫌がらせを受けるように。
「銀座に居られなくしてやる」とまで言われたけれど、直ぐにでも辞めたい気持ちを抑え、筋を通して最終日まで出勤し退店。
そのとき、今までちゃんとお客様と向き合ってきたし、私のことを信じてくれるお客様とだけ繋がっていけたらいいと思う。

小学生高学年の時、同窓会の連絡で担任の先生から電話がかかってくる。
「いまなんの仕事をしているんだ」と聞かれ「銀座で働いています」と答えたら、「やっぱり!!」と納得される。一体どんな小学生だったんだろうと思いをはせる(笑)

銀座3軒目 20歳~22歳

売上のホステスとして働き始める。
はじめは自信がなかったがお客様を呼べるようになって、そのお店で最年少ながらNO.1になり天狗になる。

陰でお姉さんたちに嫌われ「あの子の席に座りたくない」と言われていたようなのですが、オーナーは「イヤだったら、自分のお客様を呼べ」とお姉さんたちを諭し、逆に私にはひとりじゃ仕事は出来ないことを説く。

自分ひとりで仕事をしている気になってしまっていたけど、皆の支えがあるからこそ仕事ができることに気づき、その後はお姉さんたちとも良い関係を築く。

2年間お世話になったけど銀座でステップアップするために退店。

銀座4軒目 22歳

同年代の子たちが社会人になりはじめる。
もし私が銀座で知り合ったお客様たちの会社に勤めることがあったとしても一生話すことが出来なかったかもしれない存在の人たちと話し可愛がって頂けていることに気づく。

入店して7カ月でお店がクローズ。
閉店する3日前に告げられて驚く。
年末だったこととそのままお正月休みで初ハワイに行くことになっていたこともあり、就職活動もできないまま複雑な気持ちで日本を後に。暗い気持ちのままハワイでお正月を過ごす。

銀座5軒目 23歳

程なくして、お店を決め働き始める。
ところがメインでみえて下さっていた会社のお客様が新しいお店にどなたもみえず不審に思い会社に電話…
そのビルが会社で入館しないよう御触れの出ているビルだと言うことが判明。
2週間で退店。

銀座6軒目 23歳~26歳

雇われママとして働き始め約2年半勤める。

程よい大きさのお店で女の子の質もよく何の不満もなく過ごしていたが、マネージャーとして入ってきた私より年上の女性があまり気がまわらず、お客様に対しても失礼な態度をとる方で、残念な思いが高じて辞めることに。

他店から雇われママの話も頂いていたが、自分でお店を出して失敗したとして借金を負ったとしても、この歳ならまだ雇われママの話を頂けるだろうしチャレンジしてみようと思い自分のお店を出すことに決める。

Luna Piena 26歳~

お店の場所を決め動き始めるも予算が1,000万円足りなくなることが判明。
国の機関で借りる段取りを進めるが保証人を立てなくてはいけなくなる。

2軒目でお世話になって可愛がってくれたママに旦那さんにお願いしてもいいか聞くと「自分で言いなさい」と言われ、直接お願いしようと自宅にお伺いするとママが既に話をしてくれていて「お前の頼みじゃしょうがない」と保証人を引き受けてもらえることに…。
もしお店が失敗してもどんなことしてでも返済すると心に誓う。

2001年10月22日 銀座8丁目にルナピエーナをオープン。

30代前半

10歳からの夢だった銀座のママになり夢を叶えたことで抜け殻になる。
新たな夢をみつけるために、気持ちの赴くまま知りたいとか学びたいと思うことを手あたり次第勉強し始める。

たとえば。。。大切なお客様をお迎えするには、お店の女の子たちに女性としてのおもてなし・マナー・身だしなみをしっかり教えたい、それなら自分が学んで教えればいい!と決心し、どうせなら世界に通用するものを総合的に学びたいと思い、グレース・ケリーも花嫁修業の一環として通ったというフィニッシングスクール「ジョン・ロバート・パワーズスクール」に入校。

スクールの最終講義の一環として、IMTA(インターナショナ・モデリング・アンド・タレント・アソシエーション)という年に2回NYで行われる海外モデル・俳優の世界最大級の海外オーディションに参加。モデル部門でメイク分野で3位、ウォーキング分野で入賞。
※IMTAは、87年にスタート、ジェシカ・ホワイト/ケイト・モス/イライジャ・ウッド/ケイティー・ホームズなどを輩出している。

10代の時に尊敬できる教えを乞える大人がいなくて苦しんできた分、自分が学びたいと思える人から学ぶことが出来る機会が得られて充実した日々を送る。

Selene 33歳~39歳

リーマンショックを機に新店舗をオープンさせることを決め、2009年3月26日 銀座7丁目にシャンパンバー「セレネ」をオープン。

お店の売上げは悪くはなかったが任せたい人が最終的に育たず、残念ながら6年間の営業を経て2015年2月末にクローズ。

たくさんの学びと人の温かさを感じる経験となる。

東日本大震災 35歳

2011年3月11日 東日本大震災。
震災後一週間お店をお休みさせて頂きましたが、銀座の夜に小さいながらも灯りをともすべくお店を再開。

その年の私の新年の抱負「私から日本を元気にする。私から笑顔の連鎖をおこす」の「私から」を「私たちから」にかえ会社の経営理念として掲げる。

『私たちから日本を元気にする。私たちから笑顔の連鎖をおこす。』

30代後半

「知性と気配りを身につける銀座の教え」
「いつ、誰が相手でも必ず盛り上がる銀座の雑談手帳」
「銀座に集う一流の午後6時からの成功仕事術」
を出版。

海外で講演させて頂いたり、国内では企業や就職活動中の学生さんに対する講演や研修、女子力アップセミナーまで男女問わず幅広い世代へ向けたセミナーの講師としてお話しさせて頂ける機会を頂く。

銀座村を飛び出して色んな方々と出会える機会を頂けていることに感謝の日々。

ルナピエーナをオープンした当初は「私が働いていて楽しくなくなったらこの仕事はいつでも辞める。
その時にはお店も閉める。」と言っていた私でしたが、こうして長い年月、可愛がって下さるお客様や一緒に働いてくれるスタッフの有り難さを深く感じるようになり、既にお店は私のモノではなくみえて下さるお客様や一緒に働いてくれているスタッフのものだと自覚。

より良くお店を継続させることが私の仕事だと感じるようになり、そのためにもスタッフの教育と自分自身の成長が大切だと思うようになる。

現在 41歳

「また会いたいと思われる人になる 大人の教科書」
を出版。

2016年10月22日 銀座ルナピエーナ15年目を迎えることができました。
これも偏にルナピエーナを可愛がって下さるお客様、一緒に働いてくれているスタッフ、
一緒に働いてくれていたスタッフ、同業者の皆さま、業者の皆さまのお陰だと感謝の気持ちでいっぱいです。

18周年、20周年と迎えることができますよう努めて参りたいと思っております。
これからも宜しくお願い致します。